2014年11月25日

旅行者の気持ち(タイへ行って)










タイへ着いた初日、ホステルの近辺に夕食を求めて外に出てみた。
車がすくのを待っている時に、西洋人2人組に話しかけられた。
「あなたはここの出身ですか?」(と言ってたと思う)
違うと答えると、きょろきょろ左右を見ながらゆっくり歩き去っていった。
僕と同じく、どこかいい店がないか探していたのだろう。

日本へ帰る2日前に、列車でアユタヤへ行った。
アユタヤ駅前で、ハンドルの安定しない危険な自転車を借り、遺跡をいくつか回った。
大きな石仏の寝姿が見えた。文字も読めないので駐輪場があるのかもわからない。適当な場所で自転車を降り、しばらく近くで石仏を見た後に戻ってみると、僕が停めた横に並べて、自転車が数台停めてあった。
おそらく、同じくレンタル自転車で観光をしていた外国人なのだろう。

僕だけではなく、多くのタイ訪問者が幾らかの不安な気持ちを抱えながら観光しているということが伺える。自分以外の外国人は英語も使えて堂々と楽しんでいるように見えるが、それぞれの内心は、初めての土地であれば戸惑いが当然あり、そういう中で行動してるのだなと思った。

2014年11月24日

タイ旅行










働き出せば時間の確保も難しくなるだろうと、
一人で1週間ほど行ってきた。

職業訓練を終えた直後、就職活動に充てるべき期間を旅行に割くなど、常識的でないかもしれない。

出発前に1社応募書類を送り、もし面接の電話があればスマホのIP電話(050~)で受信できる用意はした。(が、帰国後にメールで不採用連絡)

予定も大まかに立てていたが、不運にして実際に観光できたのは約2日間だけと言っていい。
食事か水かで腹を崩し、さらに作成していたチラシが校了していなかったため、持ち運びには重くて大きめのノートPCを持ち出し、現地でも修正作業をしていた。

それでも言葉や勝手の違う国に身を置くことは、大変でもあるがしかし思い返せば良い体験でもある。タイの人や物に直面し、その場で対応することが自分との対話や、問いかけであるようにも思えた。

異なる模様が切り抜かれた2枚の紙を重ね、色の濃くなった共通部分の形を見るように、日本人である僕がタイの日常に入ることで共通する部分、同時に異なった部分も見えたようだった。
タイ人からすれば、ただ迷惑な外国人が迷い込んできただけのことなのだろうけど。

おみやげは誰にも、自分にも買わなかった。

写真中央に、仏陀の頭部を包み込んだ木が写っている。周囲にも壊れた塔や、首の無い石仏などが並んでおり、それら遺跡の中の一つだ。

2014年5月1日

ソウル旅行(外国語)










前回に続いての投稿です。

出発の2日前になってようやく、韓国語勉強のためのサイトを探し始めた。
ガイドブックは買わず、ネットから使えそうなページをプリントアウトして持って行くことで、安く済ませようと考えていた。
前日の夜、PDF化したデータをUSBスティックに移し、いつものコンビニへ。コピー機を操作しようとしてふと目にとまったのが、ハングル表記だった。
韓国の言葉に触れたのは現地においてではなく、身近な地元。今まで視界に入っていながら無意識に日本語だけを選択し、知らない言語を読み飛ばしてきたかがわかる。
これは言語に限らず、職業病と呼ばれる特有の視点も、同種のものだろう。

鹿児島から福岡まで高速バスで行き、福岡空港から飛行機に乗ったのだが、結局自分で調べてプリントアウトした紙だけでは不安になり、ポケットサイズの『とっさの言いまわし 日常韓国語会話辞典』を博多駅ビルの紀伊国屋で買ってしまった。


言語について、福岡に戻ってきた時の驚きもまた、全く予想してなかったものだった。
丸3日ほどソウルでハングルと英語表記を見続けてきたため、福岡空港や地下鉄の案内・広告を目にした時、漢字が中国語にように見え、カタカナやひらがなを漢字の横に組み合わせて並べてあることの奇妙さや複雑さといったような、いつもとは違う印象を持った。
高速道路を降りる時のスピードの錯覚のように、または一度外に出てから自分の部屋に入った時の外との温度や臭いの差に気づくように、これは誰にでも起きる現象だと思う。

日本国内では日本語堪能な人々向けに、文字がレイアウトされていたという当たり前のことに気づく。そして漢字やひらがな、カタカナの大きさやバランス、フォントの選択など、これで良し(または不適当)と判断する自分の感覚も実は不明瞭なものであるし、大きく拠り所とするものでもないのだなと思った。

また書こうと思います。

2014年4月29日

外国・ソウル旅行










時間の取れるうちにと、4泊、一人で韓国のソウルへ旅行に行った。
行く前に思っていたのは、楽しい旅になるわけではないだろう、ということ。韓国に限らず、ある国の中でその国の人々が、毎日の暮らしをしている空間へ身を置くだけなのだから。
日本と異質なものとして興味深いだろうが、しかし楽しいものなのか…?遊園地ではしゃぐようなイメージなのが〝楽しい〟という僕の定義が狭いからなのかもしれない。


実際、平日の朝から駅に行けば通勤ラッシュだったし、
そのかわり街や、デパートは人がだいたい少ない。
12時になれば、ご飯屋にスーツ姿の人々が集まってくる。
みやげ物屋で物を売る人、銀行で窓口対応する人、掃除する人、楽し気に話す学生達。
夜、オープンテラスの賑わい。
僕は働かずに観光地を歩きまわり、お金を手放していく人。
そういった社会的関係を意識するのは、別に日本を離れたからといって変わらなかった。
東京とよく似たソウル中心部しか行動していないから、より強く感じただけなのかもしれない。


でも、行って良かったと思っている。

最も書いておきたいことは、行く前に韓国語の勉強をと直前にiPodシャッフルに仕入れたPocastの内容だ。このPodcast内のコーナーで、講師が韓国文化について解説している。
僕が一部抜粋して、ここに貼付けた(約8分半)ので聞いていただけたら嬉しいです。

他の回でも、この内容に関連した話をしているので興味ある方はいかがでしょうか。
ポッドキャストで学ぶ韓国語 サランヘヨ・ハングンマル


日本人と韓国人、容姿は似ているが文化の違い方がこれほどまで大きいとは知らなかった。
ネット上で韓国を中傷する書き込みを見る。しかし韓国人も同じように、日本人のことを信じられないくらいおかしい、と思っている人もいることだろう。
文化の違いを、情報として理解することはできるかもしれない。しかし、お互い仲良くしようという段階へ踏み込もうとする時、文化の違いが壁となって立ち現れるのではと思った。
たった5日間の滞在中でも似たような体験をしたため、ソウルの宿で聴きながら唸っていた。

また書きたいと思います。

2014年4月6日

前傾

神社の石段を往復し、2週に1度は市営プールで泳ぐ。
働いていない今はそれが継続できていて、いい感じだ。

運動したくない、今日は休もう、と思う時もある。
そういう時、 …たまに休む時もある。
ところが面倒くささを感じながらも部屋を出て、運動して汗をかいた後は、「良かった」と100%の確率で思う。
面倒くさいと思う日は、「体を休めたほうがいい」という肉体のサインなのかもしれないから、どちらがいい判断なのかは、わからない。
まあ僕の場合はあまり外出しないから、毎日運動してたほうがいいのかも。


前へ進む方法を知った。

重心・全身を前方へ傾けることだ。
そのままだと転倒してしまうから、足が一歩前へ出ざるを得ない。その繰り返しが、走るということ。

はじめは肉体を傾ける。ぐらぁり、傾けてみる。
ヨタヨタからだんだんフォームが安定し、テンポが付いてくる。
前方へ進むことを目的とした、動く構造体が出来上がる。

スピードは筋力の増加に伴って徐々についていく。
たった一日で速くなることなど無理だということ。

石段昇降を通して、ある時気づいたことだ。
そういうことを頼りに、毎日を暮らしてる。


職業訓練を申し込んだ。
決定すれば、6月上旬から始まる。5ヶ月間。
しかし、応募が少なすぎて無くなる可能性もあるらしいから、まだ心配もある。

また書きますね。

2014年2月2日

要素・バランス


一週間後が投票日の都知事選(僕は都民では無いけど)、
「主要でない」候補者について調べてみた。
出馬会見や政見放送は動画で見たが、少し驚いたのは、それら候補者に関する情報がネット上に極めて少なく、また語られていないことだった(家入氏除く)。名前と肩書き以外の情報が無い人、ホームページが無い候補者もたくさんいる。

彼らに対する有権者の関心の無さ、というよりは、
東京都のトップになる者としての実力の無さを見抜いている、と言えると思う。

有名でもなくそれまでメディアに出る必要も無く、働いてきたどっかの元会社員、経営者などが思い立ち、300万円と引き換えに自分の言いたい事を記者の前で主張している。

なぜ立候補する気になったか、説明を聞いたり、また自分で推測したりすると、人間っぽい要素が選挙というシステムを通して際立ってくるようで、「のど自慢」のように「変な人」と一笑に付すことは何だかできない気持ちになってくる。

正義感
感情の勢い
意のままに物事を動かしたい
注目されたい

それらの気持ちと合わせて、もし本当に当選したいのであれば、
人々を信用させるだけの説得力、技術、実績を持っているかどうか。

彼らはバランスを欠いている事に気づいていないのだろう。

…対して、僕は、大丈夫だろうか。
むしろそういう自分に似た面を直視したくないから、無謀な彼らを知ろうとしてきてなかったのではないか、とさえ思えてくる。

…というのも、
一昨年の5月の頃、広告制作会社を辞めようと辞意を伝え、
その後、社長室に呼ばれた時に言われた、
「君は自分で自分の事がわかっていない。」
この言葉がずっと気になっているからだ。

…今もそうなのだろうかと。

…しかし一方で、
そういうバランスを欠いた面を「主要候補」にも共通して見出すことができたように思う。
つまり、みんなそうなのかもしれない。
バランスの欠け具合の程度。
社会的に、周囲でも、自分でも、許容される範囲で。

そう思えれば、少し気楽に振る舞えそうな気もする。

2014年1月20日

短い間

2013年12月、退職。
10ヶ月。
どうしようもなかった。
(と、僕だけが思っているだけ。なぜなら同じ仕事内容のメンバーは続けているわけだから。)

…あまり書きたくない。(思い出したくない)…フタをしておきたい。
報告程度に、少しだけ書こう。

「1年目は、仕事だけに目を向けてひたすらやろう」と思っていた。
(人とうまく会話する、などという目的を持たない)

仕事の忙しさで、話す気が起こらなくなった。
(明るさを装うことができなかった)

他者の視線が気になり、行動も制限されてきた。
または敵意。

話せない。

…行き詰まった。
今後への恐れ。

〈ああ、辞めた方がいいかもね…やっぱり。不適格だよ〉
僕の働く様子を見て、そう思った人もいただろう。

カポッ(フタを閉めた音)


数日前に、哲学的内容を対話形式にした短い絵本を読んだ。

未来は、わからない。存在しない。
それは、「この瞬間、今」から、作り出されるものであるということ。

そう解釈すると、少し新鮮な気持ちになれる。